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観光百選

三次市街

神杉の地には日子穂々出見命「天降り伝説」があります。この日子穂々出見命が鎮座在す知波夜比古神社は三次市高杉町の段地区にあり、俗に二宮さんと呼ばれています。
この地は城主武田甲斐守(祝氏)が守った高杉城(別名杉山城・祝城ともいう)が神社とともにあった所です。
この城は当時では珍しく平城で、今でも周囲に土塁や堀が残っています。
高杉城は尼子方で川西の旗返山城の出城でしたが、天文22年に毛利方に攻められ、当時600人もの戦死者を出し、高杉城は陥落。この時神社も焼失しました。
毛利元就・隆元は神社を焼いたたたりを畏れ、清めに三原の沖より潮土を運ばせ土台に使用し神社を再建したと言われています。境内には厳島神社・伊勢神社・風王社や大仙社・金比羅社・祝社・荒神社があり、境内地は広島県史跡に,本殿は市の重要文化財に指定されています。

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三次盆地を東から見下ろす大眺望。東屋から徒歩5分に位置する岩屋寺は、天平年間に行基が岩屋の壁面に菩薩像を彫って信仰したのが始まりとされる由緒深い寺。

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瑤泉院とは、三次藩主浅野長治の娘として三次で育ち、忠臣蔵で有名な赤穂藩藩主、浅野長矩に嫁いだ阿久利姫のこと。赤穂義士の討ち入り後、亡くなるまで江戸で夫の菩提を弔っていたが、その遺髪が納められたと伝えられている。

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明治以降の歴史的な産業建築物を街並みと一体で保存していることが評価され、国登録有形文化財に登録の予定。2003年に蔵を閉めた後、2006年に地元住民が買い取り、敷地内でカフェなどを開業した。

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~日本で一番月が美しく見える美術館~

 ”元宋の赤”の代名詞で有名な、日本画の巨匠 奥田元宋と夫人の人形作家 奥田小由女夫妻の作品を収め、月と作品の一体感が味わえる”日本で一番月が美しく見える美術館”です。

 元宋の絵には、しばしば月が登場します。代表作の《待月》は、月と故郷三次の自然を描いた作品です。奥田元宋・小由女美術館はその幻想的な世界が再現されるような独特な設計となっています。
ロビーでは、東側の窓の外に広がる屋上庭園と、池の水面に光を落としながら夜空をわたる月を楽しめます。
 東の山からのぼり、夜空を渡る月をひとつの芸術作品に見立て、さらに満月の日の会館延長する全国初の試みなど、観月のためのサービス展開をしております。月の見せ方にこだわり、元宋の描く幻想的な月も、三次の夜空に浮かぶリアルな月も同時に楽しめる日本で一番月が美しく見える美術館です。

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布野

アララギ派として斉藤茂吉らと近代短歌の礎を確立した中村憲吉は三次市布野に生まれ、46年の生涯で3000首以上の短歌を残した。
故郷を詠んだその表現力は今もなお、人々の心を引きつけている。
記念文芸館は憲吉が実際に暮らした生家で、改装した一部以外は可能な限りそのまま保存され、往時の風情を感じることができる。

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作木

旧庄屋屋敷「殿敷」は,木造平屋建て住宅で,屋根は茅葺きの寄棟になっており,町内では最も古い民家です。柱などはかんなとちょうなで仕上げてあり,全体の外観と奥の間は昔のままの姿を残しています。
殿敷を所有していた三上家は,江戸時代には代々村庄屋を勤め,後半期には数回にわたって15ヶ村の川下組割庄屋を勤めた功績により,弘化年間に生涯苗字御免となり,三上姓を名乗るようになりました。
『殿敷系譜書』によると,その昔,南北朝時代の文和年間(1300年中期)の頃,三加美阿房守藤原勝文という侍が奈良より下り,現在の飯南町の西田五原山に城を築きましたが,文亀年間(1500年初期)に滅ぼされ,その一子千代丸が母と落城して,この地の「猪伏の岡」に住み,成長して三加美右京重勝と名乗りました。母は尼となって住み,この丘を比丘尼ヶ城とも殿鋪とも言い,当家の元祖になったと伝えています。以来500年の歴史を刻んでいます。

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吉舎

 お堂の習俗は、全国各地にありますが、安芸・備後の辻堂の習俗は、多くが三方または四方が吹き抜けで床板が張ってあり、誰でもが休んだり参拝できるのが特徴です。同様のお堂文化は中国地方、四国地方などに点在していますが、安芸・備後のお堂群は、もっとも沢山のお堂が現存し、もっとも密度の濃い地域の一つと考えられています。

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 お堂の習俗は、全国各地にありますが、安芸・備後の辻堂の習俗は、多くが三方または四方が吹き抜けで床板が張ってあり、誰でもが休んだり参拝できるのが特徴です。同様のお堂文化は中国地方、四国地方などに点在していますが、安芸・備後のお堂群は、もっとも沢山のお堂が現存し、もっとも密度の濃い地域の一つと考えられています。

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三良坂

明治15年に島根県の出雲大社(御祭神大国主大神)の御分霊を鎮祭。五穀豊穣、縁結び、交通安全などの祈願に、多くの参拝者が訪れる。

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江戸末期の民家。
19世紀後期の建築とみられ,母屋の現状は,ウチニワ,オモテ,デイ,ナンド,ダドコロの部屋を配しています。大谷地区に建築されたものですが,灰塚ダムにより水没するため,平成9年度に国土庁の「ふるさとC&C」モデル事業により灰塚のぞみが丘に移築・復元したものです。現在は,生涯学習施設として,昔の生活体験学習の場として活用を図っています。

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国重要文化財に指定されている江戸中期の民家。
入母屋作り・茅葺き,桁行6間半・梁間3間半の民家で,灰塚ダム建設にともない,平成12年に現地に移築された。内部は,入って左手に広い土間があり,右手は「おもて」「おおで」「かって」「なんど」が田の字型に配置されている。土間まわりから「かって」にかけて上屋柱が連立している点など,18世紀中期以前の古風な構造手法をもち,保存状態もよく,飾り気の少ない素朴な民家である。

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 お堂の習俗は、全国各地にありますが、安芸・備後の辻堂の習俗は、多くが三方または四方が吹き抜けで床板が張ってあり、誰でもが休んだり参拝できるのが特徴です。同様のお堂文化は中国地方、四国地方などに点在していますが、安芸・備後のお堂群は、もっとも沢山のお堂が現存し、もっとも密度の濃い地域の一つと考えられています。

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 のぞみが丘住宅地の北西,三方を小高い山に囲まれた山裾に,その一方を住宅地を望むかたちで,無縁の墓地があり,墓石の並ぶその奥に高さ2メートル程の細いステンレスポールが群立しています。
この地に眠る霊と天空とのバイパスのようにそびえたち,まるで光が天地を行き来しているかのような印象を与えます。
墓地の奥には,タラヨウの木が2本の木をたずさえて「のぞみが丘」を暖かく見守っています。

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三和

 お堂の習俗は、全国各地にありますが、安芸・備後の辻堂の習俗は、多くが三方または四方が吹き抜けで床板が張ってあり、誰でもが休んだり参拝できるのが特徴です。同様のお堂文化は中国地方、四国地方などに点在していますが、安芸・備後のお堂群は、もっとも沢山のお堂が現存し、もっとも密度の濃い地域の一つと考えられています。

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甲奴

 お堂の習俗は、全国各地にありますが、安芸・備後の辻堂の習俗は、多くが三方または四方が吹き抜けで床板が張ってあり、誰でもが休んだり参拝できるのが特徴です。同様のお堂文化は中国地方、四国地方などに点在していますが、安芸・備後のお堂群は、もっとも沢山のお堂が現存し、もっとも密度の濃い地域の一つと考えられています。

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