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観光百選

三次市街

神杉大田植は、豊かな神杉の農村地帯で昔から行われていた大田植を後世に語り継ぎ、内外と交流し地域の活性化を図るため、神杉地区自治会連合会が神杉大田植実行委員会を立ち上げ、平成18年6月11日に最初の大田植を開催。
3頭の花牛の代掻きに始まり、サゲ衆の音頭のもと40人の早乙女が音頭に併せて田植えをする。花田植えと違って派手さはないが、昔の田植えを再現し、交流田植えでは小学校児童や地区内外のみなさんも田植えを体験し交流を図る。
田植え後は、体育館で「代みて行事」を行い、おむすびを食べながら演芸やお楽しみ抽選会で楽しんでいる。
平成20年の第3回目からは写真コンテストも開催し、県内はもとより県外からも多くの愛好家が来場。

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三次市廻神町の郷にあり、1504年頃に宮として創立されていたと思われ、その後1714年頃に再建された神社で、艮の方向に建てられている。
祭神は吉備津彦神・伊邪那岐神。
境内には稲荷神社・大仙神社・厳島神社がある。
この地には怪力廻神藤十郎の伝説があり、毎年秋季大祭にはこれに因んで力自慢の「俵かたぎ」の行事が行われている。

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浅野家の家臣、福田藤兵衛の墓所。浅野長治公が没して後、自身が死すまで10年この地に結んだ庵にて主君の菩提を弔ったと伝えられる。山本周五郎の「殉死」にも描かれる忠臣であった。

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江戸時代からの伝統工芸品。三次では子どもが産まれると三次人形を贈る風習がある。現在三次に唯一の三次人形窯元。

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江戸時代中期に三次を舞台として作られた妖怪物語で、主人公の稲生平太郎が30日間にわたって次々と現れる妖怪に立ち向かい、ついに退散させるという話。
平太郎本人が書いたとされる「三次実録物語」をはじめ、さまざまな古文書や絵巻などが今に伝わる。

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寛永年間に三次藩を立藩し、初代藩主として三次の発展に大きく寄与した浅野長治公の墓。忠臣蔵で有名な播磨赤穂藩主浅野長矩の正室・阿久利の父。官位は従五位下因幡守。比熊山城跡山麓の中腹に位置し、三次盆地を見渡すことができる。

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道の名称は,時代によって,出雲街道や石州街道,雲石街道,銀山街道など,色々な名称で呼ばれています。出雲街道は、古代から陰陽を結ぶ幹線で、万葉の歌人柿本人麻呂、毛利、尼子の軍勢も通った道で,後鳥羽上皇と後醍醐天皇がいずれも倒幕に失敗し隠岐島へ配流となった時に通ったとも言われています。
また,近世期には、大森銀山の運上銀や銅を運ぶルートとなっており,明治から大正期には、三次や赤名へ往還する荷車で賑わいました。
布野町内では町内を縦断する形で通っていて,市県国道に変わった部分もありますが,当時の面影を残している個所もいくつも現存しています。
そんな場所は,山々の風情や村里の佇まい、人々の生活,旅心が湧いてきます。いくつもの難所を苦労しながら行き来した当時の人々を想像しながら,のんびりとした歩き旅にぴったりのコースです。

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~祭祀に使用された神籠石~

 古くは比熊山の山頂にあり祭祀が行われる神聖な場所(神籠石・こうごいし)として使用されていたそうです。
しかし,大同3(808)年に太歳神社が創立されてからは,頂上での祭祀は廃止されました。
 中世になり,比叡尾山から比熊山に城を移した際には築城の礎石として使用されたようです。
 江戸時代,浅野長治の時代になり,浅野堤(旭堤)を築く際の石材として比熊山山頂から多くの石と一緒に転がし落とされました。
 その中に神籠石があることを知った長治公は堤防の石材には使用せず,清浄に取扱い住吉神社の西側に保存されました。
 その後,明治28年日清戦役の戦捷記念碑の台座に応用され,道路拡張工事のために太歳神社の境内に戻されました。
 現在は,「神石」と刻書して安置され大切に保存されています。
 一説には,比熊山の「たたり石」と兄弟石ともいわれています。



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~キリスト教伝道苦難を伝える灯ろう~

尾関山公園の麓、江の川のほとりに一基のキリシタン灯ろうがあります。
石材は赤御影石で、高さ78cm、幅24cm、厚さ20cmあり、灯りをともす火袋はなく竿石と傘石だけを残しています。
キリスト教は1549年にフランシスコザビエルが日本に初めて伝えて、急激に全国に広まりました。しかし徳川時代に入ると、キリスト教徒やその親族への監視はきびしく、公然とキリストを礼拝することはできなくなりました。
このような状況のもとで造られたキリシタン灯ろうでしたが、当時数基あったものが禁制にあい、江の川の大渦渕へ投げ捨てられたと言われます。しかし後にこの一基が発見され、現在はキリスト教伝道苦難の跡をしのばせ佇んでいます。

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~ 日本の伝統 鵜飼 ~

『鵜飼』は古事記や万葉集にも登場する日本の長い歴史を誇る伝統漁法です。
三次市では馬洗川で行われ、川面を照らす灯りのなか烏帽子に腰蓑装束の鵜匠が鵜を操る姿を遊覧船から楽しむことができます。

三次の鵜飼は約450年の歴史があるといわれ、戦国時代,毛利氏との戦に敗れた尼子軍の落武者が始めたとされており、後に三次藩主・浅野長治が改良を加え、現在の形に至ったといわれています。
次鵜飼の特長は、鵜匠が操る手綱が6・75mと全国で一番長く、また鵜匠が前船頭も兼ね、一度に8羽もの鵜を操ることができます。鵜が鮎を捕える瞬間を逃さず船の行く手にも留意する伝統技は、回遊式と呼ばれる鵜船と遊覧船が並走する方法で間近に見ることができます。
毎年6月から9月まで行われています。

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~赤穂義士の木像が安置された義士堂~

三次藩祖浅野長治が先祖代々の菩堤を弔うため,1633(寛永10)年に建立した鳳源寺の境内に義士堂はあります。
 義士堂には,赤穂藩亜種浅野内匠頭長矩,同正室の阿久利姫(後の瑤泉院)と三次藩祖浅野長治および四十七士の木像が安置されています。
 この義士堂の前には瑤泉院の石造もあり,秋の季節には紅葉と義士堂の美しさも来訪者を魅了しています。

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~地域の祭典が残る神社~

 芸備線上川立駅より三次方面に向かい300m右側山手にあり,もとは八幡宮権現社として明応3年(1492年)宮の段にて創建、数度の遷宮を経て元禄10年(1698年)下川立焼庭より現在地に遷宮され、その後明治初年、神仏分離令により太平神社と改名され現在に至っています。
明治40年「神饌幣帛料供進指定社」となりました。

御祭神は,
若一王子権現(にゃくいちおうじごんげん)・・・21代雄略天皇
祇園牛頭天皇(ぎおんごずてんのう)・・・須佐乃男命
八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)・・・15代応神天皇

 ご利益として五穀豊穣、家内安全、諸災消除、病気平癒、商売繁盛、交通安全などがあります。
太平神社には専属の「川立神楽団」と素人芝居の「はだし座」があり、秋祭りの前夜祭には神楽は毎年、芝居は隔年に上演されます。因みに平成25年は芝居と神楽が一緒に奉納されました。また、子供達の太鼓の胴打ちも盛んで、毎年50名以上が元気に神祇を奉納しています。

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~地域に残る横穴式古墳~

 芸備線上川立駅より三次方面に向かい300m右手山側の太平神社本殿より南東に約200mにある横穴式古墳で,5~6世紀と推定されています。
江の川右岸に安芸高田市より続く横穴式古墳群の一つで、古代の有力な豪族の墳墓と思われ、古くからこの一帯に集落が営まれ、数多くの人々が高い文化を持って生活していた証拠と考えられています。また、「三次風土記の丘」周辺に多数発見されている竪穴式の古墳群とは様式が明らかに異なり、古代よりこの周辺が異なる文化圏の接点であったものと考えられます。
 終戦後3回の調査においては、副葬品などの出土品が多数発見され、資料として保管されています。

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~地元住民に護られた八幡神社~

 元亀2年(1571),三谷郡辻村八幡社より当字幸利山に勧請しました。元禄15年,当所の甚平吉信が社用地600坪を寄進し,社殿を改築しました。近隣12村の民によって祀られ,境内に末社三字と本地堂があります。大正3年(1914),村内貴船神社ほか5社を合併し,昭和6年(1931)に神楽殿の改築が行われました。
 多くの神様を祀った神社として古くから地元住民が参拝してきました。春と秋に祭が行われ,特に9月の最終土日に行われる秋の大祭では,前夜祭に神楽があり,祭当日には御輿などの神事が行われ,多くの人で賑わいます。神社の清掃も地元の老人会が行い,地域に護られながら,今でもなくてはならない神社として多くの地元住民に親しまれています。

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~県内最大級の古墳~

 古墳時代中期の帆立貝式古墳で,全長67メートル,高さ約10メートル,2段式築成の円丘部の直径は約57メートルあります。古墳築造時には全体で100メートルを超す古墳であったことがわかり,東広島市西条町の三ツ城古墳(全長約84メートル)とともに,県内最大級の古墳でもあります。墳丘の状況は,斜面に河原石が散在していることから葺石と考えられ,埴輪も出土しています。須恵器を含まない等からこの古墳の造られた時期は,5世紀の前半と考えられています。
 南東方向に延びる造り出し部分は,長さ約10メートル,幅約17メートル,高さ約1.5メートルありましたが,水田拡張のためその大部分は削平されています。周囲に幅約20メートルの周濠がめぐらされており,現在も畦畔として保存されています

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~地域から親しまれる神社~

本殿は大正5年(1916)に再建されました。一間社入母屋造,向拝付,銅板葺の造りです。
創立年代は不詳ですが,宝暦2年(1752)に再造営した宝殿があります。この神社には10もの神様を祀っており,大田幸,小田幸,木乗,志幸,四カ村の守護神となっています。大正3年(1914)大仙神社に,大歳神社,滝神社,稲生神社,和多理神社,寄国神社,山野神社,穀神社を合併し,今の愛宕の地に遷座して社号を大滝神社と改めました。
毎年10月の第2日曜日に地域の祭が行われています。前夜祭では神楽などを行い,祭り当日にはその年に生まれた子どものお宮参りや,小学生による太鼓や巫女の舞が披露されます。祭りと共に大滝神社は地域に住む人にとって親しみのある場所となっています。

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君田

 ~君田で一番古い神社~

 君田町櫃田地区の宮ヶ原集落にある「杵築神社」は、平安時代の初期、元慶二年(八七八年)に、出雲国杵築神社から分霊を勧請し分社したと伝えられている町内で一番古い神社です。
 
 文明17年(1485年)武家の代官職は受け入れ難いと、農民達三四名が団結の証として連名で連判し、「櫃田村百姓連署起請文」をこの神社で誓って、尾道浄土寺へ差し出しました。
 自分たちの村は、自分達で守るんだとの強い決意がしめられた起請文は、広島県下で有名な歴史資料であり、現在、この文書は、尾道浄土寺に保存されています。
杵築神社前の用水路側にある「ヒイラギモクセイ」は胸高3.35m高さ10mの巨木で県下1位といわれ、また、「スイリュウヒバ」は胸高2.5m、高さ12mで県下3位といわれています。また、鳥居の側にある丸い石2個は、娯楽のない時代、若者が集まって力比べをした「力石」です。
 杵築神社の秋季大祭では、毎年、前夜祭として神楽が奉納され、当日は、櫃田区住民が総出で盛大に祭典行事が行われます。

  

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~三次人形を奉納する幼児の守護神~

 君田町櫃田地区にある田和瀬三十番神社は、南北朝末期頃、櫃田村の田和瀬の地に勧請され、当時同地にあった日蓮宗法音寺の法華経の神として信じられたものです。
番神とは一カ月の間を交替で守護の任にあたる三十柱の神々で、天照皇大神を中心とする日本の宝であった神々です。
 天正11年(1583年)に、法音寺が三次市三次町に移ってからは、「番神堂」だけを地元の人達が守り続け、特に幼児の守護神として地域の人々に親しまれ、尊崇をされている神さまです。
 櫃田では、この「三十番神社」を通称「番神さん」と呼んでいます。参拝者は、古来、君田町内はもちろん、広く関東・九州にまでおよびます。
後に君田町内2カ所に分社勧請されました。

 この番神さんには、こどもの健やかな成長を願い、子供が誕生すると、氏名・生年月日を三次人形などの各種人形に書き込み祈願、奉納されます。また、特に「ちりげ」と呼ばれる、ひきつけを起こす病気やかんのむし・熱病などに御利益があり、子供が病気がちな時参拝し、病気の回復を祈願します。そして、祈願成就のあかつきには、感謝の心をこめてさらに多くの三次人形などの人形が奉納されます。現在も、各々の番神さんへ、各地から祈願、参拝されています。
                     

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~観世音菩薩が安置された石洞窟~

 高幡山は、君田を代表する山で、標高665メートルあり、九合目付近に観世音菩薩を安置する巨大な石洞窟があり、昔は山嶽霊場として有名でした。
 この洞窟観音堂は、鎌倉時代以前の山嶽仏教(真言宗=山状)が相当繁栄をした時代があったことが推測されます。
高幡観音には、洞窟に不動明王など35体の仏像が安置され、入口に三面観音、岩屋の上に翼をもった天狗の像、岩屋外に5体の仏像が安置されています。
 この洞窟の前には「山伏の呼び岩」と言われる岩があり、食料がなくなった時には、山伏がこの岩の上から法螺外を吹いたということです。
 昭和初期に、竹下某という法師がこの洞窟内に移住し、奇特な霊視、祈祷をすると言うことで、遠近からの参拝者も多く、洞窟内外へ多数の石仏が寄進されました。
平成4年から観光協会が中心になり、毎年地域住民の協力で「秋季大祭」を山道入口で催し、東山林道からの山道には、石仏が100体も並べられ参列者や登山者の安全を見守っています。 

※平成28年12月20日(火)まで通路の舗装工事により通行が困難です。

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布野

知波夜比売神社の祭神の天鈿女命は,天の岩戸に隠れた天照大神を引き出すため岩戸の前で踊ったことでも有名です。社殿は本殿,幣殿,拝殿,神楽殿,宝蔵からなり,本殿の中の銅製鰐口は広島県重要文化財に指定されています。
この神社の秋祭りは,農作物の豊作を祝う目的で例年盛大に行われています。特に前夜に行われる奉納神楽は,布野神楽団が務めていて,夜8時ごろから始まり,夜半過ぎまでしています。祭り当日は,各地から繰り出される神輿担ぎと,楽打ちが賑やかで,多くの参拝者が訪れます。

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奥津神社は,伝説によると、昔大雨の夜に多吉という者の夢の中に白髪の婦人が現れて「我は多紀理比売命なり、この地に迹を垂れ永くこの地の守護神とならん」とお告げがありました。夜が明けて東北を見ると昨日まで平坦であった土地が小山になっていたので大いに驚き、領主にお願い出て小山の上に祠を建て氏神と尊称したと伝えられています。
この神社の特徴は,なんといってもその景観にあります。
山頂の祠とそびえ立つ数本の杉の大木は,いかにも田舎の神社らしく,急な石段を登って境内に足を踏み入れると,特別な雰囲気に包みこまれるような感覚になります。戸河内川を挟んで東側の県道から見える神社は,素晴らしい景観ですが,特に,秋の夕方,西日が背後から照らす様は,神々が宿る荘厳な重さが感じられます。
ぜひ一度お立ち寄りください。

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作木

市道岡三渕光守後線沿いの砂井谷川にある渕で,説明板があり,市道から渕を見ることができます。
伝説では,昔,鎮西八郎為朝が賊を追い,ここで討ったと伝えられ,その時の矢が逆さにささり,そこから生えた「さか竹」という竹やぶがあると伝えています。
また,大蛇が大きな岩の上で背を干したという「大蛇の背ほし岩」という岩が,今も水しぶきを浴び,気味悪く残っています。

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奥行2.4m,高さ1.7m,幅1.3mの横穴式石室古墳で,古墳時代後期(5,6世紀)の墳墓と推定されています。この古墳は三次市史跡に指定されており,説明板が立っています。
盛土は畑地開墾のため取り除かれて石室が完全に露出しており,巨石による石組み全体を見ることができます。市道石貝線のすぐ近くにあり,町内では最も大きな古墳です。

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大山の天王山にあり,標識を目印に県道香淀三次線から石段を上がると木立の中に御陵がひっそりと建っています。
『大山国郡志』では,承久年中,後鳥羽院様が隠岐の国へ移られる際,高野山にしばらく逗留されたのち,この地で崩御されたと伝えています。また『浄円寺文書』では,後鳥羽院様が隠岐島を逃れ,この地へ来られて崩御され,法名を「花後林見天雲鳳皇」と称え奉ったと述べています。
周辺の地域には,上皇に関する跡や呼び名として次のようなものが残っています。御遺体を清めるのに使った「ゆかん岩」,人々がその場所から拝んだと伝えられる「はいばら」,上皇をお守りする番所と伝えられる「番僧」,京都から持ち込まれて野生化したと伝えられる「多宝茶」などがあります。
また,作木町香淀字川毛の市道淀峠線沿いには,「後鳥羽院尊儀」という墓碑が建っています。

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作木町内で「大踊り」が残っているのは,伊賀和志天満宮だけです。
大踊りは一人ずつが太鼓を腰に付けて打つもので,その所作には独特の風情があります。また,大踊りは祭礼時の楽打ちと違って,多くの歌詞が伝わっていますが,「寺わかさ」「三艘姫ご」がよく舞われています。
伊賀和志天満宮では,毎年10月の秋の大祭に舞い継がれています。

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三良坂

「三良坂の祇園さん」は,約300年前の江戸時代,当時の村の役人伊藤勘十郎によって現在地に勧請されたと伝えられ八坂神社の五穀豊穣・家内安全を祈る祭事として行われていたものです。
昭和30年代後半までは,明治時代後半に寄進された「おごれんさん」と呼ばれる山車を地域の子供たちが引っ張る「お旅行列」が行われていたが高度経済成長期の都市部への人口流出の影響で,お旅行列は行われなくなっていました。
昭和50年,「おごれんさん」を子供たちに引かせたいとの思いで,当時の三良坂商工会青年部が「第1回三良坂祇園祭」を開催し,再び地域の子供たちがおごれんさんを引くお旅行列も行われるようになった。
昭和52年からは土曜夜市も開催される現在のような祭りとなり,以降三良坂に夏を告げる「三良坂の祇園さん」として現在まで続きます。

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農耕の苦しみや楽しみ,収穫の喜びを表し,田の神に感謝を捧げるもので起源は鎌倉時代と言われます。明治時代には牛供養花田植えとして賑やかに催され,昭和35年に町の無形文化財に指定されました。
飾り牛の代かきにはじまり,男衆の笛や太鼓の囃子に合わせ,揃いの笠をかぶり絣の着物に身を包んだ早乙女たちが唄いながら田植えをする様は,まさに農業版時代絵巻です。後継者不足もあり,一時期休眠していましたが,平成9年に三良坂町郷土芸能保存会が結成され,子どもたちなどの手でしっかりと受け継がれています。

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三和

~地域で守り継ぐ伝統文化~

 信原田楽は三和町下板木信原地区において平安時代から行われていたといわれており、6月末頃、田植え休みに地区の庄屋さんが皆様方に感謝の意を表すため地区の人を招待して花田植を行った後もてなしをしたものといわれています。
 昭和の始めを境に途絶えていましたが、昭和61年に伝統文化を後世に伝承しなくてはということで保存会を発足して復活しました。以降、一時中断した時期もありましたが、現在では下板木コミュニティーが中心となり、地域の有志のみなさんが集まって、毎年5月の最終日曜日に下板木地区の圃場をお借りして開催しています。また、田植え牛も下板木地区の酪農家さん宅の牛が出場しており、地域を挙げての行事となっています。

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甲奴

平安時代後期に甲奴町本郷の霧隠谷に一頭の竜が棲みつき、地域の住民に被害を及ぼした。うわさは京都まで達し、伝応僧正に竜退治が命じられ、僧正は降魔の修法で竜を池に封じ、里人は大いに安堵したと。
この池が現在の福山寺本堂横にある臥竜池である。福山寺は龍隠山と号し、天仁2年(1109年)建立の由緒をもつ。
現在は臨済宗永源寺派に属する。池はこの禅寺の庭園になっており、山寺の落ち着いた癒しの空間になっている。

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武蔵岩は、現在甲奴町本郷の亀山八幡神社境内に所在する。亀山八幡神社は正中2年(1325年)に、宮迫大宮八幡神社が争論の際、各村へ分祀した八幡神社の一つである。
元宮の大宮八幡神社は、奈良時代宝亀年間に創建され、現在のジミー・カーターシビックセンターの奥に所在していた。大宮八幡神社の高殿入りの順番を決めていたのが武蔵岩(六指岩)である。
岩の平面に六指線が引かれてあり、六指の勝負を行い、順番を決めて各地を出発した高殿入りは、その順番に従って大宮八幡神社へ向かっていたのである。宝くじや勝負事にご利益があるかも。

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奈良時代末期に創建されたと伝えられる甲奴町小童鎮座の須佐神社には、参道の回廊に多くの絵馬が掲げられている。
回廊は元禄14年(1701年)に世羅町の御用林より資材の調達を受け建立されたものである。
江戸時代後期より現在に至る祈願、感謝、記念などの絵馬があり、その中には上下町連中による俳諧絵馬もあり、中国新聞社編集の「広島県文化百選(風物編)」にも登載されている。

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甲奴町梶田の粟島神社は、女性の幸せを守る神社として知られ、天正年間に紀伊国淡島神社から勧請されたと伝えられる。
祭神は国常立命、大巳貴命、少彦名命で、時折管理に来られる宮司さんとの会話はとても楽しいですよ。

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~甲奴のパワースポット~

 甲奴町抜湯にある「念願が可能岩」は、岩倉神社本殿の後方にあって、近年来、甲奴町のパワースポットの一つとなっています。中世よりほうそう平癒の疫の権現様として尊崇されてきました。
 山の中腹に露呈する石灰岩が屏風のようになっていて、古代の磐座信仰からはじまり、現在は大己貴命他八柱の神様が祭られています。
 20cmあまりの岩の間を、願いを念じて通過すれば成就するといわれ、他の地域からの参拝者が多く来られています。

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